伊木長門守と里見忠義400年
里見忠義が、元和二年(1616)二月北条山田八幡宮、九月に北野天満宮の社殿造営。 東郷八幡宮寄進。
雄誉上人が、忠義公に面会に来られたのもこのころ。
元和三年(1617)池田光政因伯32万石領主となり、倉吉は家老伊木長門守管掌となり、里見忠義は預かりの身となり、下田中に移されました。
不思議なのは、池田光政が8歳で姫路城は大任だとして国替えになったのに、家老伊木長門守はまだ6歳であるのになぜ倉吉を管掌させたのか?です。
家老の家臣が優れたものがいたのでしょうが、今に残る長門土手の堤防構築、勝入寺建立など非凡な手腕が見れます。
特に池田勝入斉(恒興)は、豊臣秀吉の元で、家康軍と長久手で戦い戦死。
現党首(池田光政)は、勝入斉の子の輝政を始祖としているのに、その先代の菩提寺,勝入寺を倉吉に建立したのはなぜ。
伊木長門守には、謎が多い。
住民の率先協力があったからだろうが、就任してすぐ、小鴨川沿いに、水害防止の堤防、今でも地名として残る「長門土手」建設。池田家始祖、勝入斎の菩提寺、勝入寺を建立した能力には驚く。
伊木家老は6歳だから、前任地姫路では、父、忠繁が姫路城の建設奉行してたその力量が主従にあったと推察できる。そして36歳で父忠繁が亡くなった時、5歳の三男、三十郎(忠貞)を跡継にしたのは、伊木半兵衛だったという。
この伊木半兵衛は、倉吉では、どこにも名がみつからない。それほど慎重に記録に残さないほど用心している。初代忠次の弟の子で、前任地三次では、忠次の元で働いていた実力者で2代忠繁のもとでも腕ふるっていたものとおもわれる。
里見忠義が、下田中に行ったのも、もうひとつの暴れ川、天神川の千人波止作りを、伊木長門守から頼まれ、引き受けたのかもしれません?
だから、産土神社横に住民が居住を許したものでしょう。
400年目は、新しい市会議員さんが意気揚々と新時代を引き継ぎましょう。
今、倉吉は選挙選の真っただ中です。
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